2017年度、島根県津和野町出身の北斎研究者・永田生慈氏(1951-2018)より、北斎とその門人の作品・資料2,398件が島根県へ寄贈されました。この「永田コレクション」は、北斎に関する個人コレクションとしては世界屈指の規模を誇ると共に、北斎研究上、極めて貴重な作品や資料の宝庫であり、当館では、複数回の展覧会を通じて、その全貌を公開する予定です。本展はその〈一章〉として、北斎が浮世絵界にデビューした20歳から45歳頃(*)まで、主に用いていた画号から「春朗期」・「宗理期」とよばれる、若き日の北斎に焦点を当てます。(*年齢は全て数え年)
北斎の生涯の中でもこの両期は、現存数や資料が少なく、謎多き時期とされていますが、永田氏は当該期の作品博捜に努め、春朗期では約90点、宗理期では約340点もの作品を蒐集。それらの研究を通して、北斎の知られざる様々な側面を明らかにされました。
本展では、そんな蒐集と研究が一体化した「永田コレクション」より、春朗期と宗理期の作品約350点を公開します。特に、極めて希少な春朗期の肉筆画、宗理期における第一級の摺物群「津和野藩伝来摺物」(初の全144点公開)は必見です。北斎の春朗期・宗理期だけに焦点を当てる初の大規模展となる本展は、永田コレクションが県外不出のコレクションのため、島根県でしか見ることができません。
世界に轟く画号「葛飾北斎」を名のることも、代表作『北斎漫画』・《冨嶽三十六景》を描くこともまだ先のこと―そんな北斎の知られざる若き日の研鑽と挑戦の軌跡をぜひご覧ください。
北斎は安永7年(1778)、19歳で役者似顔絵の第一人者・勝川春章に入門したとされ、その翌年には「勝川春朗」の名で作品を発表し始めます。この「春朗」を名のった20歳から35歳までの約15年間は、北斎の70年に及ぶ全画業の中で習作期と位置づけられ、勝川派以外の様々な画派の表現も貪欲に吸収し、画技の研鑽に努めた時期です。 錦絵では勝川派らしい役者絵を中心に、美人画、武者絵、浮絵、名所絵、おもちゃ絵など様々な画題を手がけ、版本では黄表紙(大人向けの絵入り小説)を中心に芝居絵本、洒落本などの挿絵を精力的に描くなど、多彩な作画活動を展開しました。 一方、摺物については、春朗期の後半からわずかに作例が知られ、それらの中に、次期「宗理期」に通じる叙情的要素が見出せるようになります。また肉筆画の現存遺品は極めて少なく、完成品である本画としては、「永田コレクション」の《婦女風俗図》と《鍾馗図》の2点が知られる程度です。 師春章没後の寛政6年(1794)頃、春朗は勝川派を離れたと思われます。
世界で唯一
「春朗」のサインがある
肉筆の本画(完成品)
《鍾馗図》【通期展示】
極めて希少な
春朗期の
肉筆美人画
《婦女風俗図》
【通期展示】
貴重な
春朗期唯一
の大判美人画シリーズ
《花くらへ 弥生の雛形》
【前期展示】
寛政4年(1792)に師の勝川春章が没すると、同6年(1794)頃、春朗は勝川派を離れ、琳派の流れを汲む「俵屋宗理」の名を継ぎます。北斎はこの襲名を機に、富裕な趣味人からの私的注文による摺物や狂歌本の挿絵、さらに肉筆画など、春朗期ではほとんど手がけなかった新たな分野に挑戦するようになります。画風も一変し、「宗理風」とよばれる楚々とした優美な女性像に象徴される、温雅で叙情性漂う表現で世評を得て、数多くの優れた狂歌摺物、狂歌本の挿絵、肉筆美人画を描きました。
寛政10年(1798)、北斎は「宗理」号を門人の宗二に譲って「北斎辰政」と改号し、さらに「画狂人北斎」と号すようになり、これ以降、どの浮世絵画派にも属さない独立した絵師となります。ただ宗理襲名後に確立した叙情的な画風は、この独立以降も文化2年(1805)頃まで一貫することから、この約10年間は「宗理期」・「宗理様式の時代」と呼ばれています。
なお一般向けに販売される錦絵の制作は、宗理派在籍時に一時途絶えますが、享和期(1801~04)から再び手がけるようになります。中でも西洋の透視遠近法や銅版画の影響を受けた洋風風景画を多く描いており、後年の《冨嶽三十六景》に繋がる素地が見受けられます。
文化2年から「葛飾北斎」の画号で、迫力ある豪快な画風の読本挿絵を盛んに描くようになると、宗理様式は徐々に薄れていきます。
永田コレクションの
津和野藩伝来摺物・全144点を初公開
《曙艸(吉野山花見)[津和野藩伝来摺物]》(部分)
【展示3/15~3/26】
これぞ一世を
風靡した
「宗理美人」の
逸品
《人を待つ美人図》
【通期展示】
世界に轟く
「北斎」改名を
宣言した
記念碑的摺物
《亀》 【前期展示】