松江出身の著名な浮世絵コレクター・新庄二郎(1901-1996)。
彼がいかにして「新庄コレクション」を作り上げたのか、
島根県へ譲渡するまでの人生と蒐集の軌跡をたどります。
新庄二郎、
松江に生まれ育つ
1901年8月21日、新庄二郎は、松江市伊勢宮町で遊郭を営む新庄儀一郎の次男として生まれました。新庄は白潟小学校へ通う頃、宍道湖でよく水泳や釣りをして遊んだといいます。晩年の新庄はたびたび、この頃眺めた宍道湖の美しい風景について語っています。
そんな少年時代も束の間、新庄14歳の頃に両親が相次いで亡くなり、新庄は島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高校)を卒業するとすぐに上京。東京の新聞店で働きながら、明治大学商科専門部に通うようになります。
浮世絵との出会い
新庄は明大在学中の21歳の頃、上野の博物館で歌川広重《京都名所之内 淀川》を目にし、その抒情的な水上風景に深い感銘を受けました。新庄が記憶している、浮世絵との最初の出会いです。大学を卒業した22歳の新庄は、大阪の寿屋(現・サントリー株式会社)へ就職するも病を得て松江へ帰郷。この折に松江興雲閣で版画家・織田一磨の展覧会を鑑賞しています。新庄は多感な青年期に、後に蒐集の対象となる広重や一磨の作品を目にしていたのです。
戦後、電気スタンド
専門会社で成功
新庄は23歳(1924年)で結婚し、大阪で電器関連の仕事に就きます。1940年頃には照明機具の会社を経営するまでになりますが、やがて太平洋戦争がはじまり、終戦直前の空襲で工場を失います。戦後すぐに会社を再建するも工場事故に遭い退社。家族の疎開先(松江市古志原)で療養した後、再び大阪へ向かいます。1949年、新庄は自身がデザインする高級電気スタンドの専門会社を設立します。住環境の変化を先読みした事業は成功し、三越など大手百貨店と契約して販路を拡大しました。
「新庄コレクション」の
はじまり
事業が安定しはじめた1950年頃、新庄はふと目にした小林清親の版画を購入します。清親が描いた明治の東京風景は、新庄が大学に通っていた1920年頃においても、その名残をのこしていました。しかし新庄が大学を卒業した1923年の9月、関東大震災によりその風景は一変してしまいます。新庄の目には、清親の「東京名所絵」に、青年期に眺めた懐かしい東京の風景が重なって見えたことでしょう。新庄はわずか3年で約90点の清親作品を蒐集しました。これが「新庄コレクション」のはじまりです。
郷土の大先輩・
桑原羊次郎の
浮世絵を受け継いで
1958年頃、郷土の大先輩・桑原羊次郎の優れた浮世絵コレクションを譲り受けたことは、「新庄コレクション」にとって大きな転機となりました。松江市東茶町に生まれた桑原羊次郎(1868-1956)は実業家・政治家であると同時に、美術の分野でも活躍した文化人でした。特に浮世絵研究者、蒐集家として全国的に有名でした。その桑原遺愛の歌川広重《東海道五拾三次之内》や貴重な肉筆浮世絵を受け継いだことで、「新庄コレクション」は浮世絵の世界で広く知られるようになります。
東京五輪・大阪万博の
記念展示へ出品
「新庄コレクション」の質の高さは次第に認められようになり、国家的イベントに合わせて開催される大規模な展覧会において、一部の所蔵作品が展示されるようになります。東京オリンピック(1964年)の折に開催された「浮世絵・風俗画名作展」(日本浮世絵協会主催)では、新庄所蔵の葛飾北斎《冨嶽三十六景 山下白雨》(黒富士)が出品され、大阪万国博覧会(1970年)における「万国博美術展」では、新庄所蔵の葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》(赤富士)が、浮世絵の代表として世界の名画と共に展示されました。
「新庄コレクション展」が
全国で開催
1970年代、全国の美術館・博物館・百貨店より、「新庄コレクション展」の依頼が殺到するようになります。島根県立博物館「浮世絵展 新庄コレクション」(1973年)、山口県立山口博物館「日本の美 浮世絵名品展 新庄コレクションより」(1976年)、福井県立岡島美術記念館「新庄コレクション 浮世絵名作展」(1976年)、神戸市立南蛮美術館「新庄コレクション 北斎と広重」(1977年)、銀座三越「北斎と廣重 二人の浮世絵師展」(1979年)など、新庄コレクションのセット展示が多くの浮世絵ファンの目を楽しませました。
世界の浮世絵専門書
にも掲載
「新庄コレクション」は、その質の高さから、多くの浮世絵関連書籍で紹介されており、海外で出版された浮世絵の大著にも掲載されています。例えば、英国オックスフォード大学より出版された『Images from the Floating World』(1978年)では、葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》、《同 山下白雨》、歌川広重《木曾海道六拾九次之内 洗馬》、《同 宮ノ越》の4点が掲載。北斎研究者リチャード・レイン(Richard Lane)の大著『Hokusai; Life and Work』(1989年)でも、北斎の《冨嶽三十六景 凱風快晴》がその表紙を飾っています。
島根県へ「新庄コレクション」
378点を譲渡
1982年、新庄は病で倒れたのを機に、生まれ故郷の島根県へのコレクション一括譲渡を決意します。翌1983年、コレクションは島根県立博物館に収蔵され、同館や県内各地の文化会館、公民館を巡回し、広く県民へお披露目されました。島根県は1984年、県の重要な財産として、北斎の《冨嶽三十六景 凱風快晴》、《同 神奈川沖浪裏》、《同 山下白雨》、広重の《東海道五拾三次之内》全55点を県の「有形文化財」に指定しました。新庄はその後も浮世絵蒐集をつづけ、1990年に74点の浮世絵を島根県へ寄贈。島根県所蔵の「新庄コレクション」は、複数回の寄贈を含めて全471点にのぼります。
浮世絵普及の功績が
認められて
新庄は1976年より日本浮世絵協会の理事を長年務め、1995年「第14回内山晋米寿記念浮世絵奨励賞」を受賞しました。同賞は浮世絵に関する優れた研究者や功績のあった関係者等を顕彰するもので、「質・量ともに充実した内容を誇る作品群を多くの浮世絵展に積極的に出品」したことや、コレクションを島根県へ委譲し「浮世絵の啓蒙に大なる役割を果たした」こと(『浮世絵芸術』117号より)が評価されました。
翌1996年12月2日、新庄二郎は永眠(享年95歳)しました。晩年、新庄は自らの後半生を次のように述懐しています。「本業の外に浮世絵というもう一つの大きい夢を持って真に生甲斐を感じた。其の点私の晩年は幸福であった」(『博物館ニュース』No.33(1983年 島根県立美術館 発行)より)と。