下記は、浮世絵研究者・永田生慈氏(1951-2018)より、当館企画展「新庄二郎が愛した浮世絵」(2017年1月2日~2月6日)の図録に寄せていただいた一文です。新庄コレクションを通して、個人コレクションが持つ特性や意義について語られています。
この文章を寄せていただいた約4ヶ月後、永田氏より、自身が50年かけて集成したコレクションの一括寄贈について、お申し出をいただきました。
個人が集成したコレクションは、そのコレクターの人格をも顕している。と、教示下さったのは、恩師、楢崎宗重先生だった。
それは、作品が単独の時は、制作者の意とするところを汲み、芸術性を鑑賞するものであるが、個人によって収集された複数の場合、そこには当然のことながら、集成した人の人格も内蔵されているということなのだ。
人格は心理学的にいえば、知的、感情的、意志的な側面の全体をあわせたものとされるのだから、作品と共にこれらの意識も併せて感受すべきだという、コレクションに対峙する時の心構えと鑑賞法についての、ありがたい諭しだったのである。
この「新庄二郎が愛した浮世絵」展では、陳列されている優品のそれぞれを具に鑑賞できるだけではなく、全体を見渡せば新庄二郎という一人のコレクターが、どのような作品に感動し、どのような憧れをもって収集に励んだのかも、窺い知ることのできる醍醐味があるはずである。
私事で恐縮なのだが、この原稿の依頼を受けて思い起こしてみると、新庄氏に初めてお目にかかったのは、確か東京神田に在った日本浮世絵協会(現、国際浮世絵学会)の事務所で、当時は会の理事長を務めておられた楢崎先生の紹介だったと記憶している。もうかれこれ30年以上前のことで、その場の会話などは鮮明に覚えてはいないものの、まだ30代の筆者に対し、優しく接していただいたことが、懐かしい印象として昨日のことのように甦ってくるのである。
この思い出と共に、新庄コレクションが散逸することなく、松江の地で保存され、広く公開される経緯の一端と意義についても、触れておかなくてはならないだろう。新庄氏自身が蒐集について、「私の蒐集に最も幸運だった事は肉筆浮世絵蒐集家として世界的に有名だった郷土の大先輩桑原羊次郎先生の知遇を得た事である。」(『増補新庄コレクション浮世絵図録』所収「私と浮世絵」平成3年3月刊 島根県立博物館発行)と述べておられるように、桑原羊次郎(1868-1956)からの啓発は、コレクション形成のうえで大きな原動力であったと思われるのである。事実、コレクションの中には、桑原旧蔵の歌川広重、保永堂版《東海道五拾三次》[図1]の大部分と、懐月堂安度の肉筆画《武田信玄像》[図2]ほかが含まれていることからも、審美的な意識の継承は小さくなかったと考えていい。
左
右
[図1]歌川広重《東海道五拾三次之内 箱根 湖水図》
[図2]桑原羊次郎が自身所蔵の肉筆浮世絵を列記した直筆の『浮世絵肉筆目録』。新庄二郎が譲り受けた肉筆浮世絵については、上部欄外に新庄の蔵印(やくもそうあん)が捺されています。
桑原羊次郎は、松江の経済人として重きをなし、衆議院議員としても政界で活躍した人物であったが、金工や浮世絵の収集と研究で世界的にも高名であった。実は、筆者に新庄氏を紹介下さった楢崎先生も、桑原の要請に応じて、島根大学へ浮世絵の講義に出向いていると仄聞している。こうしてみると、桑原の郷土における文化方面への貢献度は、政治、経済と並んで極めて大きく、その継承された精神の一端によって、新庄コレクションの大きな部分が形成されたといって過言ではないと思われるのである。
新庄コレクションが郷土の松江に、安住を得て広く公開されるには、長い年月をかけたそれなりの経緯があったのだった。
以上のような事情にも留意しながら、このコレクションを見渡せば、作品一点一点が放つ芸術性と相俟って、一段とその魅力が増大するに違いない。
おそらく、この展覧会のタイトルを「新庄コレクション浮世絵名品展」ではなく、「新庄二郎が愛した浮世絵」とされた意図も、この辺りにあるのだと考えたい。もしそうであるとすれば、実にふさわしい名タイトルと思われるからである。
昨年は、新庄二郎氏が逝去されて20年を迎えた節目の年であった。今日、本展は松江と浮世絵との係わりを再び喚起するという点でも意義深いものがあり、研究者の一人として、ここに開催に満腔の祝意を表したい。
読み方:桑原羊次郎=くわばらようじろう